『暗黒のアメリカ』と世界

『暗黒のアメリカ』の「訳者あとがき」に入れようと思って準備していたものの一部をもとに、本書の紹介をしてみます。どんな本であるかが少しでも伝われば。

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「暗黒のアメリカ」というタイトルから、今のアメリカの話かと思うかもしれません。実際、今のアメリカでは連邦議会がまともに機能せず、連邦最高裁は法に基づく判断をするのを放棄したようで、権力が大統領に集中していて、民主主義という観点に立てばまさに暗黒時代にあるように見えます。

しかし本書が取り扱うのは約100年前、第一次世界大戦に参戦した後のアメリカです。その頃も、参戦や徴兵に反対した多くの人が政治犯として投獄され、出版物の検閲が行なわれるなど、民主主義が脅かされているといえる状態にありました。


当時のアメリカには、資本家と労働組合、白人と黒人、移民排斥主義者と移民との間に大きな対立があり、これが第一次世界大戦への参戦と、それに伴った弾圧によって一気に悪化したのです。

結果、本書が詳述するとおり、多数の新聞や雑誌が廃刊に追い込まれ、移民が強引に大量送還されたほか、労働運動を妨害するために覆面工作員が送り込まれ、ブラックの人たちがたいへんな憎悪と暴力にさらされました。

ところが現代のアメリカにいる人たちの多くは、そんな時代があったことを知りません。1917年から21年までの間に起きたことは、標準的な歴史の教科書に載ってさえいないからです。

原書が刊行された直後の2022年10月に行なわれた講演で、著者ホックシールドはこう問いかけます。


「大統領が選挙結果を覆そうとしたり、連邦議会議事堂が襲撃されたり、連邦最高裁がとんでもない判決を出したりするなど、この数年間であった衝撃的な出来事が、今から100年後の歴史書にほとんど載っていなかったらどうでしょう?」

 

少し前には想像もできなかったようなことが起きているアメリカの現状が、記録に残されないはずがないと思われるかもしれません。でも、今から100年前のアメリカの状況は、まさになかったかのように扱われているのです。

アメリカには、ゼノフォビア、自警主義者(私人で、本来その権限を持たない人)による法の執行、レイシズム、移民排斥主義、スケープゴートを見つけたがる傾向といった暗い底流が常に存在する。大きな危機に直面すると、その勢いが強くなり、あっという間に民主主義が損なわれてしまう。そんな警告を本書は発しています。

他方で、このような暗黒時代を乗り越えた経験がアメリカにあることを現代の読者に知らせてくれる点で、本書は実は希望を与えてくれると同時に、今のアメリカ、ひいては世界についての洞察に富んでもいます。


ホックシールドは本書を次のように結んでいます。

 

「アメリカにある民主主義は完璧からは程遠く、一世代か二世代ごとに私たちはそれがどれほど危ういかをあらためて知る。第一次世界大戦中やその後にアメリカを騒然とさせた軋轢のほとんどは現在も消えていない…暗黒の勢力がふたたびアメリカ社会を圧倒しないようにするために、私たちには多くが求められる。一つには、危険信号を目にしたり、煽動行為が行なわれている気配があったりしたらそれとわかるように、自分たちの歴史を知ること。100年以上前に真実を話し自分の信念を貫いた人たちのような、勇気のある男性や女性。…何千万もの人が経済面で遅れをとってスケープゴートを探すことがないように、富がより公正な形で分配されること。…権力者に対して弱腰ではないマスメディア。そして何よりも、私たちがふたたび暗闇に入り込んでしまうことがけっしてないように、市民的権利や憲法上の保護規定を油断なく見守りながら尊重すること」(第24章「嵐のあと」より)

 

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著者のアダム・ホックシールドはノンフィクション作家で、本書を含めて11の著作があります(注)。かつてはジャーナリストとして活動し、『マザー・ジョーンズ』誌の共同創設者でもあります。

「次の人生では小説家になるつもりだ。現世では、登場人物を作り出す才能に欠けているので、現実の世界にいた人を題材にしている」と述べているとおり、書くこと、調べることにとにかく喜びを見出しているらしく、本書の軽やかな話の運びにもそれが表れています。

(注)著者の名字のHochschild をより厳密に表記すれば「ホークシルド」になります。ただ、著者のパートナーである社会学者の Arlie Russel Hochschild さんの名字が、その著書の日本語版で「ホックシールド」になっているため、本書ではそちらに合わせました。